めぶあや!!!
楠芽吹は自室でプラモデルを組み立てていた。集中力を養う鍛錬の一部であったこともあり、細かい部品を素早く丁寧に組み上げる。
それを後方のベッドから眺めているのは国土亜耶。何をするでもなく、芽吹に声をかけることもない。それでも毛布にくるまってプラモ製作を見守っていた。
会話がないまま時が流れた。作業は大詰め。心地よい静寂の中で五重塔は無事に完成。この後訪れる、一部の防人による大地震にも耐えるだろう。
芽吹は亜耶にも見てもらおうと振り返る。
猫が丸まっていた。正確には、猫以外に形容する言葉が見当たらない状態の巫女であった。
芽吹は思わず叫びそうになった。
こんなに可愛い生き物が地球上に存在したなんて!
もふもふの毛布にふわふわの髪が流れていた。しかも緩みきった柔らかそうな寝顔。挙げ句の果てには全身が毛布に覆われているかと思いきや、ちらちらと生足が、首筋が目に入るのだ。
その光景に正常な判断能力を奪われた芽吹は、ある決断を下す。
この天使を写真に収めよう。瞳に焼きつけるだけでは足りない。鍛錬の合間に眺めれば絶大な休息効果が得られることだろう。
行動は迅速だった。足音を立てないように慎重に鞄の中のスマホとの距離を詰める。鞄の中身を常に整理整頓していたのは、今、この瞬間のためだったとさえ思えた。
目の前に自分の存在に気がついていないバーテックスがいた場合よりも静かに素早く動けたはず。
無事にスマホを手にしたところで、重大な問題に気がついた。
芽吹には写真を撮る習慣などない。連絡事項などをバックアップ代わりに残す程度だ。つまり無音で撮影できるアプリなど入手していないどころか、その存在すら彼女は知らないのだ。
それでも防人の隊長として、秘密裏に結成された国土亜耶ファンクラブの会長として、撤退するなんてありえない。
シャッター音が鳴るスピーカーの位置は把握している。所詮はわずか0.5秒の雑音。やれないことはない。
視界に入ったのは輪ゴム。幸いなことにプラモ部品をまとめるために箱買いしてある。雀が置いていった滑り止めシートもゴム製のようだ。
雀は何から身を守ろうとしてこんな物を?と逸れそうになった思考を現実に引き戻す。
何はともあれ、ゴム製品を二重にすれば防音にも多少は期待が持てる。
スマホの見た目は少数部族に伝わる呪具的になったが、芽吹にとっては些細なことだった。
簡易的な処置ではシャッター音が完全に消せるとは思えない。昼過ぎについ眠ってしまっただけの亜耶は多少の物音でも起きてしまうかもしれない。事実上、チャンスは一度きり。
光源も被写体も動かさず、音を立てず、呪具と化したスマホを構えて写真を撮る。それは想像をはるかに超える難易度だった。さらに付け加えるなら、人を綺麗に撮るのと紙の文字を読めるように撮るのはまるで違う行為であり、芽吹のわずかな経験は役に立たなかった。
今の感動は、奇跡は、残せないのか。
芽吹は走馬灯のように今まであったことを回想する。幼少期に見た父の背中。勇者を目指した日々。なれなかった日。防人としての毎日。何もかも、繋がっていた。
だから、きっと過去の自分が助けてくれる。冷静な頭は不可能だと言うけれど、心は折れていない。
試行錯誤の末、亜耶の眠るベッドのすぐ横に立ち、フィギュアスケートの如く反り返りながら両手を伸ばした状態で、その姿勢を維持するために片足を窓枠に乗せて呪具を構えた。
光に満ちた天使に影を落とさず、必要な角度と高度を得るにはこれしかない。
たった一度のチャンス。
シャッター音は雀でも怯えない音量だった。
やはり万全とは言えないまでも相応の働きをした輪ゴムと滑り止めシートに心の中で礼をしながら成果を確認する。
……駄目だった。今の芽吹の力量では届かなかった。不思議と敗北感はない。膝をつくくらいなら、一分一秒でも長く目の前の彼女を堪能しよう。顔を上げて……そこには、加賀城雀が立っていた。ぷるぷると笑いをこらえながら立っていた。手の中のスマホには、芸術的な姿勢で呪術を行使している芽吹。
しかし今の彼女の気を引いたのはただ一点。スマホから呪具をパージして彼女らしからぬ高速文字入力で問う。
『どうやって写真を撮ったの?』
『普通に無音のカメラアプリでだけど』
目を白黒させる芽吹の様子で、ようやく雀は状況を理解した。ここまでは並外れた生存本能だけで音を出してはならないと判断し、いつも以上に慎重に廊下を歩き、爆弾を解体するような手つきでドアを開けたのだ。
そこから先は簡単だった。雀はあっという間に亜耶を写真に収め、それは彼女の可愛らしさを存分に表現していた。
実際にはピントと画角を中心に撮影し、明るさや色彩を修正したので成功したのだが、芽吹にしてみれば魔法のようだった。
芽吹は亜耶の寝顔を眺める。何やら夢を見ているらしく、消え入りそうな声で名前を呼ばれた気がした。思わず頬が緩む。
彼女は意識していないが、既に雀は姿を消していた。
「おはよう、亜耶ちゃん」
「おはようございます、芽吹先輩」
舌足らずな返事。亜耶は芽吹の手を取って抱き抱えた。まだ寝ぼけているようだ。残った手で頭を撫でていると急に顔が赤くなった。
「目が覚めた?」
「は、はい!大丈夫です」
キョロキョロと辺りを見渡す。
「五重塔は完成したんですね。とっても立派です」
「ありがとう。もうすぐ夕飯の時間よ」
「そんなに眠ってしまったんですね。良い夢を見ていたからでしょうか?」
「どんな夢だったの?」
「雀先輩がみかんを、弥勒先輩がカツオを、しずく先輩とシズク先輩がラーメンを、私がクッキーを持ち寄って、芽吹先輩がそれを全部入れておうどんを作る夢です。みんなでお腹いっぱい食べて幸せでした」
「……ずいぶん恐ろ、いや、愉快な夢だったのね」
「あはははは!!!こりゃヒドイな楠!」
「ちょっとシズクさん!そんなに笑ったら失礼っふふっ」
「シズク様が出てきちゃうレベルの写真も珍しいよね」
食堂のテーブルには雀のスマホが置かれていた。映し出されているのはもちろん芸術的な姿勢で呪術を行使している芽吹。
「雀。何か言い残すことは?」
「メブを怒らせるのは怖いけど、これが私の使命だったんだよ」
夕飯を食べられるかどうか心配になる程に全力で鬼ごっこを始めたふたりを、食堂は冷静にスルー。いつものことだ。
「何があったんですか?」
「簡単に説明すると、国土さんの寝顔を撮影しようと試みた芽吹さんが怪しげな儀式をしている様子ですわ」
「こ、これは……」
亜耶は肩を震わせて必死に耐えている。
「そんなに笑いをこらえなくてもいいだろ?俺たちも思いっきり笑ってるし、楠も本気で怒ってはいねぇよ。加賀城がやってんだからセーフなんだろ」
「そういう訳ではないですけど……」
ついに捕まった雀はくすぐられて悲鳴を上げている。
「丸くなったな、楠も」
「食事直前に食堂を5周も走り回る姿を見てそんなことを言うのはシズクさんだけですわ」
「あややー。食後のデザートだよ」
「ありがとうございます」
雀から食料を受け取る時、誰も中身を尋ねない。確実にみかんだからだ。
珍しいことに雀が亜耶の部屋を訪れていた。
以前は私物の少なさを恐れて無意識に避けていた部屋。現在は写真やプラモや少女漫画まである、普通の部屋。雀にとっても落ち着ける場所になった。
「メブのこと、気にしてる?」
直球は苦手だ。しかし変化球は亜耶に通用しない。
「どちらかというと、雀先輩のことです。芽吹先輩に追いかけられるのは怖くないですか?」
「かわいいなぁーあややはー」
会話が噛み合わない。
「大丈夫だよ。私はメブにかまってほしいけど、独り占めしたいわけじゃないから。あややもちょっかい出したりしていいんだよ?」
「でも……」
「メブはすっごく真面目で変なことを本気でやっちゃう人だから。周りの人が笑わせたり怒らせたりしてあげないと肩の力が抜けないんだよ。あややもメブをリラックスさせてあげてね」
「わかりました!私が芽吹先輩をからかいます!」
拳を握りしめて決意する姿を見て、迷走を確信しながらも亜耶を送り出した。雀の結論はシンプル。遠慮しがちな似た者同士なら、焚きつけてしまえば良い。
「芽吹先輩!」
「どうしたの?」
勢いで芽吹の部屋に押しかけたものの、彼女には何の策もなかった。手には雀産のみかん。これしかない。
「いきます!えいっ!」
みかんの皮の汁が芽吹の目に飛んだ。
「いたた……亜耶ちゃん?」
「お、怒りましたか?」
「いえ別に」
「そんな……」
いつだったかしずくから聞いた渾身のイタズラでも芽吹を怒らせることができなかった。
露骨にショックを受ける姿は、それはそれで可愛い。芽吹としては見たいような見たくないような。
「ふふふっ。やっぱり怒ったわ」
どう見ても笑っている。
芽吹は困惑する亜耶の手を引きベッドに腰掛けさせた。そしてくすぐる。
「きゃっ!くすぐったいですー!」
今度は頬を軽くつまんで引っ張る。
「ふふぇー。ふふひぃへー」
最後に頭を撫でる。
「えへへー」
「雀にやってるのもこんなもんよ。雀は怖がってるんじゃなくて逃げ回るのを楽しんでるだけ」
もちろん頭は撫でていないが。
「その、もし芽吹先輩が許してくださるなら、」
「ええ。いつでもイタズラしていいわよ」
「じゃあ、次は私、逃げてみますね」
「雀はともかく、亜耶ちゃんは気をつけてね。食堂とか本当は走り回ったら危ないんだから」
「はい!」
芽吹は怒っていた。こんなに純粋で元気なのに年相応の振る舞いが珍しいということに。
「亜耶ちゃんは今、楽しい?」
「とーっても楽しいです!」
弾けるような笑顔とはよく言うが、この時芽吹が心を奪われたのは他のものを全て弾き飛ばしてしまうような笑顔であった。そんな考えすら保たない。だから仕方のないことだ。理性が飛んでいるのだから浮ついたセリフのひとつも抑えられない。
「私も、とーっても幸せよ。亜耶ちゃんと一緒にいられて」
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